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無門関 第1則

第1則 趙州狗子

  趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」
  州云く、「無」

   修行僧が、趙州和尚(じょうしゅうおしょう)に質問した。
  「犬に仏性があるのでしょうか、ないのでしょうか?」
   趙州和尚は、答えた。
  「無」

 有名な無門関の第1則です。修行僧の観念的な質問に、趙州和尚の答えは端的に「無」。この「無」はどういう意味でしょうか。
 修行僧の質問で「仏性」というのは、悟りをひらくことができる性質という意味でしょうが、ここで無を有無の無という意味で趙州和尚が使っているわけではありません。

 私はよく次のような質問を受けます。同じ調子で書いてみましょう。

   ロースクールの学生が、井藤教授に質問した。
  「私は司法試験に受かるでしょうか、受からないでしょうか」
   井藤教授は、答えた。
  「そんなこと知らんがな」

 人はみな観念や概念の世界にからめとられます。この修行僧も、このロースクールの学生も観念や概念を手で掴み取ろうとしているのですが、まったく無意味です。

 趙州和尚の言葉「無」を私なりに翻訳すると次のようになります。
「犬に仏性。そんなこと考えている暇があったら、目の前のあんたの修行(やるべきこと)を無心にやりなさい」
 つまり今になりきれということです。

 私は、旧司法試験組で合格したのは合格者500人時代です。当時合格率は2%くらいで、何十年も勉強しているベテラン司法浪人が溢れており競争は今と違って熾烈で過酷でした。
 それでも合格したわけですが、私は旧司法試験の択一試験や論文試験がはじまるとともに問題を解いているという意識がなくなり、終わりの合図で意識がもどりました。でも、問題はちゃんと解けているわけで、これは問題を解いている自分を意識する自分がいなくなって択一や論文の問題を解くだけの自分になりきっていたということです。
 客観的な自分と主観的な自分が合一化して、ある意味出題された問題になりきっていたということでしょう。

 誰でも無我夢中になっているときは、世界と自分が今この瞬間一体化しているのです。

 ロースクールの学生は、司法試験に合格するかとか将来がどうなるのかなどの「不安」という手に掴めない観念の世界にからめとられることがありますが、そのような観念の世界にからめとられることなく、ひだひたすら、具体的な司法試験の勉強になりきればいいのです。今眼の前にあるやるべき課題(過去問など)をひとつひとつただひたすら片付けていけば、自ずと未来はひらけるのです。
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